では、そのソーシャルに必要なものは何だろうか。
例えば鈴木さんというひとがいる。鈴木さんが鈴木さんあるためには、その関係者や、社会全体が、他ではない鈴木さんという識別をする必要がある。
これはアイデンティティという言葉で表現してもかまわない。自己同一性は自分だけのものでなく、他人の自己同一性も保証されなければ成立しない。なぜなら他の誰でもない自己の集合があって、社会というメタ空間は存在し得るからだ。
例えば、昨日友人になった鈴木さんと山田さんは、次の日からも、自分たちが友人であるという認識を持ち続けていなければ、その関係はなかったことになる。
もし、明日目覚めて誰も自分のことを覚えていなければ、自分という人間は社会的には始めから存在しなかったのと同じことになる。
以前大きな問題になった年金の消失などは、国家の認識する社会において個人の一部を消失したのだから、単に銭金だけの問題ではなく、国家の社会システムの根幹を揺るがしていると言える。
ややこしいのでまとめると、自分が自分であるということは、自分がそう思っていても社会的には成立しない。それは自分以外のひとたちが、あなたをあなただと認めることで初めて成立している。ということになる。
Web におけるアイデンティティ
もともと Web にはアイデンティティという概念は存在しなかった。
それは HTTP がステートレスなプロトコルだということで証明できる。
ステートレスだということは、最初の HTTP リクエストの後、もう一度同じエージェントが HTTP リクエストを送ったとしても、それを同じエージェントからのリクエストだということは感知しないし、証明もできないということだ。
この問題の一部を解決したのが Cookie だ。
Cookie によって Web に初めて原始的なアイデンィティが産まれた。
原始的だというのは、クロスドメインでの証明ができないためだ。セキュリティの問題もあるため、クロスドメインでの Cookie の受け渡しは行われるべきではないけれど、これでは「オラの村ではオラだけど、都会さでたらオラでなくなる」という状態になる。
細かい技術的な話はしないけれど、これらの問題の一部をさらに解決する手段はあり、例えば Facebook でログインしていれば、他のドメインのサイトでも Facebook アカウントでコメントができたり、ゲームに参加したりということが現在では可能になっている。
Web におけるアイデンティティは、その存在の必要性そのものが議論の対象なので、ここではこれ以上突っ込みたくないのでさておき、現在ではひとつのドメイン空間だけでなく Web 全体を通じたアイデンティティという概念が産まれつつある。
そしてこの Web 全体を通じたアイデンティティの誕生こそが、ソーシャル Web には欠かせないものだ。
なぜならこれまで書いてきたとおり、ソーシャルには個人の誕生が不可欠だからだ。そして個人の誕生は個人を識別できるアーキテクチャがなければ始まらない。
これがつまりアーキテクチャの大きな変化といえる。それまで認識しなかった個人を認識するアーキテクチャが Web に組み込まれつつある。これはよいこともあるし、勿論わるいこともある。けれど善悪に意味なんか無い。
新しいアーキテクチャ、新しいコンセプト
新しいアーキテクチャは新しい知覚をもたらし、無数の新しいコンセプトを産み出す。そしてそれは環世界の拡大による、世界の大規模な再構築を起こす。
断っておくが現実の世界は何も変化しない。変わるのはあくまで、ひとの認識する世界の形でしかない。
細菌が発見されようとされまいと、細菌はずっとそこにあって、これからもある。けれどそれを発見したひとの世界では、ワクチンや予防注射などで、病気の一部が解決される。
つまり、リアルもバーチャルも、それらを分けるのは無意味だといいたい。
なぜならひとはひとの認識できる環世界でしか生きられない。バーチャルの体験で覚醒することもあれば、自殺することもある。何がリアルで何がバーチャルかなどは、個人の捉え方でしかない。先ほど例にあげた細菌など、原始時代の人類にとってはバーチャルなものだろう。文学作品で過去に自殺者が多発したという歴史もある。
となるとどうだろう、もし Web 上にアイデンティティが確立されれば、それはつまり Web のリアル化になりはしないだろうか。
Web がリアルを浸食し始めているのは事実だし、それはこれから益々進んでいくだろう。ソーシャル Web はその入り口だといってもいい。なら、ソーシャル Web をもっと掘り下げる必要がある。無論、だから Web を禁じるというのは、馬鹿げている。